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【読書】イシューからはじめよ 安宅和人 著

06/23/2020

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著者の安宅さんは、東京大学大学院で修士号を取得されたあと、かの有名なマッキンゼー・アンド・カンパニーに入社されています。
その後、イエール大学で脳神経の研究をされた後、再びマッキンゼーに復帰されたという華麗な経歴を持つ方です。
その後、日本ではヤフーなどの企業を経た後、2018年より傾向大学環境情報学部の教授と書かれています。

正直、安宅さんの事は全く知りませんでしたが、「生産性」という同じくマッキンゼー人事部の方が書かれた本で、このイシューからはじめよに出会いました。
それから、長い年月を経て通勤電車の中で、Kindleで読みました。
文章も平易で、読みやすく一気に読めてしまいます。
特に、本の前半は線をたくさん引きました。

著書の後半で、研究者時代の教授の話を紹介して言います。

「どんな説明もこれ以上できないほど簡単にしろ。それでも人はわからないと言うものだ。そして自分が理解できなければ、それを作った人間のことをバカだと思うものだ。人は決して自分の頭が悪いなんて思わない」

といったものです。
そのあたりのわかりやすさを意識して書かれていますので、読みやすいのだと思います。

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プロローグ

知的生産性の話から始まります。
生産性とは、同じ時間でより成果を提示できる働き方の事です。
世の中には、たくさんの職業がありますが、知識の多寡に関わらず、体を動かすことこそが正しいと認識され、それが組織風土として定着している組織は比較的多いです。
わたしの所属している病院という組織は、基本的に経営のトップである院長は医者しかなれません。

けれども、医者は医療のプロではありますが、経営のプロではありません。
それが原因なのかは知りませんが、多くの病院は近年赤字が問題視されており、閉鎖を余儀なくされる病院も出てきています。

この、非営利組織というのは、少し曲者で利益を出すための組織ではありませんが、利益がないと成長しない組織でもあります。
病院で勤務する者も、サラリーマンやOLと同じく、組織に従事しその働きの対価として、給与を得ています。
ですので、利益のことばかりを考えるのではありませんが、利益のことを考えなければこれからの病院経営はたち行かなくなることは明らかです。

そのような病院という組織の実態は、個人的感覚ですが、生産性は非常に低いものであるような気がしています。
根拠に基づく医療(EBM)というものがありますが、基本的に根拠は臨床実践のためにあるものですので、医療者は論文を読み、この研究は目の前の患者さんにアプライ可能というのを繰り返すのが臨床です。

けれども、多くの医療者は非営利組織であることを盾にとり、よりよい経営に関して学ぶ機会は皆無といって良いと思います。
体ではなく、頭を使って働くことは、医療を取り巻く全てを良い方向に導くものであるはずです。

体だけ使う働き方は、甲子園を目指している高校球児が、何も考えずただ毎日練習だけを行うことと似ています。
本人は、たくさん動いて練習した気になり、毎日練習すれば、ある程度は向上すると思います。
けれども、野球にも相手がありますので、相手のことを分析し、さらに内省し自らの分析を行うことで、成果=試合に勝つことができるようになるはずです。


医療において、試合に勝つということは、以前は病院を退院できればそれで良かったのですが、最近は例えば6ヶ月後やさらに長期の認知能力を含む機能の低下を如何に防ぐかと言ったことも重視されてきています。

長期的視点を見据えるためには、短期的戦略も必要です。
その戦略に大きなヒントを提示してくれているのが本書になります。

”悩まない、悩んでいるヒマがあれば考える”

冒頭から、<考える>と<悩む>の違いについて、解説しています。

その考えは、

「悩む」=「答えがでない」という前提のものとに、「考えるフリ」をすること

「考える」=「答えが出る」という前提の基に、建設的に考えを組み立てること

と著者は述べています。
この2つは、まったく別物であるということなのです。

答えが出ないということは、いくらやっても答えが出ないので、徒労感しか残らない
考えるということは、答えがでるので、答えを導き出すために行う過程に対しては、たとえ時間がかかったとしても、生産的な時間であるといえるでしょう。

生産性を考える上では、悩むことは無駄以外の何者でもない。
自分自身はたくさん悩んで、考えたつもりになっているかもしれないが、成果として提示できなければ、その時間は無駄であり、かつその時間が他者にまで及ぼすことを考えると、他者の時間まで浪費しているということに繋がります。

「浪費」「消費」「投資」はよく聞くものです。
浪費は、悩むことと同じことであり、何の生産性も生みません。
一方消費は、生産性のために消費した時間であれば、容認できるでしょう。
さらに投資は、今現在の生産性としては成立しないかもしれませんが、長期的に数年後を見据えて、数年かけて築く生産性は非常に貴重なものであります。

そのため、著者は、「悩んだらすぐ休め」と書いています。
つまり、自分が悩んでいるかどうかを知ることが必要なのです。
悩んでいるかどうかを知るには、「メタ認知」が必要です。
メタ認知とは、認知の認知とも言われます。
客観的・鳥瞰的に自らを俯瞰する事がメタ認知と言えるでしょう。

部下や他者には色々いっているけど、実際自分自身はできていないという人をよく見ると思います。
その方は、メタ認知ができていない代表的な人であると言えます。

まだ、本文までたどり着いておらず、冒頭のプロローグですが、非常に重要な見知が散りばめられています。

序章 この本の考え方 ー 脱「犬の道」

そもそも、この本のタイトルを構成する言葉である「イシュー」とは何なのでしょうか。
グロービス経営大学院のホームページには、以下のように解説されています。

イシューとは、一般的な用語としては「論点」「課題」「問題」などと訳されることが多いが、「クリティカル・シンキング」においては、論理を構造化する際に、その場で「何を考え、論じるべきか」を指す。 「イシューを特定する」とは、「何を考えるべきか」「受け手の関心は何か」を熟考し、「考え、論じる目的」を押さえることを指す。”
引用:グロービス経営大学院 https://mba.globis.ac.jp/about_mba/glossary/detail-11716.html#:~:text=%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E4%B8%80%E8%88%AC%E7%9A%84,%E3%82%92%E6%8A%BC%E3%81%95%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E6%8C%87%E3%81%99%E3%80%82

この解説を参照すると、単なる問題ではなく、問題の本質を論ずるために、何を考えるべきか、構造的アプローチのように見えます。

先に書きました、「悩む」と「考える」の違いを踏まえると、考えることは答えを導き出すためにあるのでした。
その答えを導き出すために、何をどのように論じるべきか、といったことがタイトルに込められているような気がします。

イシューが単なる論点と訳されるのであれば、「論点からはじめよ」というタイトルになるはずです。
つまり著者は、イシューとは単なる論点ではない、という想いが込められたタイトルであるように思います。

イシューの定義に関しては、本文中で著者が2つ挙げています。
改変引用すると ”2つ以上の集団で決着がついておらず、白黒はっきりしていない問題”のようです。

バリューのある仕事

バリューとは一般的に、「値打ち」と訳されるようです。

その「値打ち」を見出すのは、「生産性」という結論にたどり着きます。
著者は、生産性の公式を提示しています。

”生産性=アウトプット/インプット=成果/投下した労力・時間”

なのだそうです。
インプットばかり増えても、アウトプットが増えなければ、生産性が改善しないのは当然ですので、この公式は少し考えればすんなりと理解できます。

例えば、医療の世界でも、どれほど最良の治療や看護を提供しようとも、カルテにその内容を記載しなければ、後から見返した際には、何もしていないことと同義になります。
つまり、アウトプット(カルテに記載する)があるからこそ、次にそのカルテを見た人は、どのような経緯があったのかを理解することができます。

バリューの本質として、著者は次のように述べています。

”「イシュー度」と「質の解」”です。

これをマトリクスにすると以下のようになります。

著者はバリューのある仕事に行き着くためのプロセスについて述べています。
頑張って仕事の量を増やしても、その質は向上しないとは言いませんが、生産性の観点からは、乏しいと言わざるを得ません。
一方、イシュー度を高めるためには見極めが重要です。

イシューとは ”白黒はっきりしておらず、考える価値のあるもの” であるとすれば、イシューかどうかの見極めがまず重要です。
このイシューの見極めを誤れば、イシュー度を高めることはできません。
著者は、本当の問題は総数を100とすると、せいぜい2−3個だといいます。
ですので、イシューかどうかの見極めが重要です。

研究を行う方にとっては常識なのですが、自分が新たな研究アイデアを思いつき、そのテーマをPubmedと呼ばれるデータベースで検索した際に、自分のテーマがHitしない場合は、ホントに新奇なアイデアか自分の検索方法が悪いかのどちらかであると言われます。
ほとんどは後者の、検索方法が悪いことでHitしないだけです。
世の中には約77億人の人口がいますので、専門分野を細分化したとしても、ある程度のアイデアは出し尽くされているはずです。
その、重箱の隅をつつくような行為が、イシューを見極めるともいえます。

一方で重箱の隅をつつく行為は、需要のない項目である可能性も高く、その見極めには、需要と新奇性の観点から重点を置くべきでしょう。

元AppleのCEOであった、故Steve jobs氏は市場調査を行わないことでも有名でした。
有名なものが、電話を開発したグラハム・ベルが市場調査を行ったのか?というような名言もあります。
iPhoneは我々の生活を激変させましたが、発売当初は一般の方からは否定的な意見もあったように思います。
しかしいつしか、その否定的だった人たちも、マジョリティの波に押され、当たり前のように、新たな文明の利器を備えて、頻用しています。
イシューとは、そのような観点からも、iPhone の例えであれば、発売後の先までを見据えたものであるといえます。
その見極めたイシューをさらに洗練させるのが、解の徹底した見極めになります。

一方、著者が”犬の道”と呼んでいる、仕事の量を増やす、つまり寝る間を惜しんで働いても多くの方は、イシューのある仕事とは程遠いものとなってしまいます。
「犬の道」は通ってはならない道です。
右回りのプロセスのみが、正しい道となります。

医療の世界ではいまだに、当直といって日中働いてその後準夜帯も働いて、深夜帯も働いて、日が明けてからまた、普段どおりの日勤を行っている病院がおおくあります。
以前はこの様な働き方が常識だったのですが、昨今働き方改革の影響もあり、政策としてこのような無理のある働き方は禁止されています。

個人的には、常識だと思っているのですが夜勤明けの判断力は、アルコールを飲んだ時と同じほどの判断力しかできないと言われています。
ですので、夜勤明けのスタッフが行うべきは、患者さんの診療ではなく、さっさと帰宅して自らに与えられた時間で最大のパフォーマンスを行うために使うべきなのです。
”飲んだら乗るな”と言われるように、アルコールを飲んだら運転してはいけないというのは、常識ですが、夜勤明けに仕事をしてはいけないというのは常識ではないようです。
当たり前ですが、夜勤明けに車を運転して自宅まで帰るという行為自体にも、大きなリスクがあると言えるでしょう。

イシューの見極めができれば、解の徹底した磨き込みを行います。

時間ベースかアウトプットベースか

”「労働者(laborer)」と「ワーカー」と「サラリーマン」と「ビジネスパーソン」と「プロフェッショナル」”についても著者は言及しています。
生産性の観点からは、時間をいくらかけたところで何の意味もありません。
ですが、労働者やワーカーと呼ばれる方々は、成果ではなく時間に対しての対価である給与があたえられています。
時給○円というのがそれにあたります。

ところが、労働者と呼ばれるアルバイトでも個人差はあります。
スーパーのレジをみていると、例えば1時間で40人のレジ対応を終える人と、20人しか対応できないほど、差がある場合もあります。
効率としては、倍働いていますがもらえる給与は同じです。
これは、誰でもできる仕事であると思われているという点と、そのような給与体系しか提示できないマネジメント側の問題があるように思います。

つまり、効率の極めて良いAさんが辞めたとしても、効率は悪いけど次のBさんやCさんがいるので良いということになります。
本来であれば、Aさんのような人財を増やすことで、他のサービスを充実させることも出来るはずです。
一芸を秀でる能力を発揮する場所は、それぞれ異なりますが、たかがレジ対応でも、効率のよい働き方ができる人財はどのような仕事についても、考えて働くというプロフェッショナル思考が出来るのではないかと思います。

レジ対応を早くするには、かごに詰められた商品を効率よくバーコードで読み込んでいき、効率よく精算するかごに詰めていく必要があります。
何も考えずに、このような単純作業をつづけていても、同じようにしか進歩しませんが、考えて仕事の効率化を図ることで、より質をあげより多くの対応ができるようになるのです。

そのような人財を増やすことで、クライアントは待ち時間の短縮ができ、スタッフにも余裕がうまれ、清潔や商品の陳列や顧客の対応などの、組織として行うべき有意義な時間に回すことが可能となります。
必要な人財の見極めは、マネジメントする側からしてみれば、本来最も重要であるはずですが、先に述べたように1人としか認識されませんので、優秀なスタッフは辞職につながるのです。

医療も同じく、1日50人の外来を診る医師がいる一方で、5人しか診れない医師もいます。
流石に、この2者が同じ給与というわけにはいきませんが、基本的には医師も労働者視点で勤務している人は多いです。
勤務医はいくら働いたところで、同じ給与ですので如何に楽しようか、給与をもらうために残業しようかという、姑息な対応しか考えることができなくなってしまいます。
まあ、ある一定以上の医師の場合は、それほどお金に困ることも無いのでしょうけど。

”ビジネスパーソンとは、会社に雇われてはいるが、マネジメントなど「ハンドルを握る側の人」というのが本来の意味”と書かれています。
ビジネスパーソンの場合は、労働時間に対する対価としての給与ではなく、成果に対する給与であるといえます。

イシュードリブン「解く」前に「見極める」

著者は以下のように述べています。改変引用します。
”いきなりイシューの見極めからはじめることが極意。
「何に答えを出す必要があるのか」という議論からはじめ、「そのためには何を明らかにする必要があるのか」という流れで分析設計する。”

イシューの見極めは、一人ではできないことが多いため、相談相手を持つことを勧めています。

この意見には、個人的に賛成です。
メンターがいる人は、やるべきことが明確です。
そのメンターのようになりたいからです。
けれども、守破離の如くいつかは、メンターから離れる日がきます。
そして、自らがメンターとなります。
自らがメンターとなっても、コアな部分は自分のメンターから受け継いだメソッドです。
このように、その思想は代々受け継がれていきます。
これは組織風土作りでも同様です。
組織風土とは物体として見えないものですが、メンターと呼べる人から代々受け継がれる思想は、メンターがいなくなってからその効果を発揮します。
メンターがいなくなってもその思想を受け継ぎ、組織として最善の取り組みが行われることで、はじめてそのメンターが行ってきたことに意味を成すのだと思います。

近くにメンターと呼べる人がいなければ、あったことのない思想を共有できる有名人に積極的に連絡をとってみるのも、オススメされています。
テレビに出るような方は別としても、ことさら医療界においては嫌な顔はされないと思います。

検討をはじめてから、「イシューとはなんだろう」「やってみないとわからない」などは、禁止されていいます。
とにかく、イシューを見極める作業に集中せよ、とのことです。

その方法として、仮説の重要性を挙げています。
現状の調査だけでは見えて来ないものを、意図的に見に行くための仮説であると言えます。
例えば、医療においては、誤嚥性肺炎という病気の発生率はどうなっているか?ではなく誤嚥性肺炎を〇〇と〇〇いう抗菌薬で治療効果を比較した場合の死亡率は変わらないのではないか?という仮説も例として挙げられると思います。
これは、研究を行う上では一般的な作業であると言えます。

仮説をたてることで、気づかなかった情報や分析がわかる。

分析結果の解釈も明確になる

研究でも同じだが、仮説がないままに分析をはじめても結論にはたどりつけない。
看護師さんが行う研究でもやりがちなのだが、まず適当にデータを集めて、「このデータを使って何か言えないですか?」っていうのはよくあります。
大変苦労して集められたデータなのでしょうが、先に分析方法を明確にしていないと、ある統計学者曰く”ゴミデータ”にしかなりません。
せっかく苦労して集めた方にとっては、そんなひどい言い方しなくても良いじゃないか、と思われる方もいるかも知れませんが、先に分析手法が決まっていないのにデータを集め始めてもゴミにしかなりません。
運良く使えるデータがあったとしても、不要なデータ集積に使う時間も”浪費”となってしまいますので、時間は有効に使うためにも、イシューを明確にすることが必要です。

著者は言葉にすることの重要性を提示しています。以下引用。

”「絵」や「図」はイメージをつかむためには有用だが、概念をきっちりと定義するのは言葉にしかできない技だ”

と述べています。
確かに、図表は論文でもサッと目を通すには、最も効率的ですが、その詳細を知るには本文を読まなければわかりません。
そういう観点からは、閲覧した人の理解の一致度が高い、とは言えない可能性があります。
そのため、誰が読んでも同じような解釈を出来るような、言語化が必要になります。
日本人は言語化が不得意と言われていますので、特に意図的に言語化する必要があります。
これまた、論文と同じですが、基本的には誰が読んでも同じ解釈になるように書かれます。
ただ、結果の解釈としては真逆に受け止められる方もいらっしゃいます。

例えば、2004年にアクセプトされた、SAFE studyという研究があります。
この研究では、点滴(輸液蘇生)を行う際に、生理食塩水と4%アルブミンではどちらが良いか?という研究になります。
結果としては、主要評価項目である死亡率は両群間で差はありませんでした。
普通は、アルブミンは血液から作られるものですので、コストをはじめ未知の感染症などのリスクもゼロといえません。
けれども、アルブミンを擁護する方々は、死亡率に差がないのあれば、アルブミンを使っても良い(安全;SAFE)のだと解釈しました。
まあ、たしかにアルブミンはSAFEだったわけですが、科学に臨床が加わるとその解釈は時に、人により変わりますので注意が必要かもしれません。

比較表現を入れる

比較は研究における基本とも言えるでしょう。
AはBよりも優越なのか、劣勢なのか、非劣性なのか、同等なのかで、行うべき研究の手法も異なります。
日本人がよくやりがち(だった?)な、「3た論法」とよばれるものがあります。
これは、〇〇をやった、良くなった、だから効いた、というものです。

3た論法でかかれたものがなぜ悪いのかというと、比較が無いからです。
また、科学的なロジックとして、良くなったと効いたとの間に因果関係が示されていません。
これは、雨乞いをした→雨が降った→雨乞いが効いた、と言っているのと同じです。
古代であれば、雨乞いは効果的とされていたのでしょうが、現代では雨乞いの効果を信じるものは皆無なのでは無いでしょうか。
それは、科学の発展とともに、雨が降る原理がわかってきたからです。
つまり、個人や集団で雨乞いをしたところで、雨雲レーダーで雨雲の無いところには雨は降らないのです。

ちなみに天気予報の降水確率とは、過去のデータの集積により、このようなパターンであるから、○%と決めていると聞いたことがあります。

つまり、雨乞いの例では、雨乞いを行う群と行わない群に分けて、例えば1年間など天候に左右されることが無いように、試験を行う必要性があるということです。

著者はよいイシューの3条件を提示しています。以下引用します。

”本質的な選択肢である”
”深い仮説がある”
”答えを出せる”

最も重要なのは、答えを出せるという事だと思います。
逆説的に考えると、研究でも同じですが、答えを出すために、色々やるわけです。
例えば、先行研究を調べつくしたり、このようなデータをこれだけ集めて、どのような分析を行う、などです。
つまり、研究が行われるためには、ある程度の”勝算”が必要になります。
特にグラントと呼ばれる研究費を獲得したうえで行われるものに関しては、結果=有益な結果がほしいわけです。

特に多いのは、新薬関連の研究です。
古い薬で大規模研究が少ないのは、古い薬は特許が切れて、薬の値段(薬価)が安くなる事で儲けが出ないためです。
製薬会社も企業ですので、営利がでなければ膨大なお金がかかる研究をあえて組む必要はありません。
そのため、頻度の少ない病気に関しては、国の補助などが必要になります。

一方製薬会社主導の試験で問題となるのは、その試験の信頼性です。
薬剤効果がないという、ネガティブな結果であれば、その試験の信頼性はあると思います。
しかし、ある薬を使った結果、偽薬(プラセボ)と比較して、良好な結果が得られた場合の研究結果の解釈には、注意が必要です。
つまり、データの捏造の可能性があります。
もっとも近年では、データ捏造や剽窃に対しても、だいぶ厳しくなってきているようですが、100%は防ぎきれていないようです。
特にメジャージャーナルと呼ばれるたぐいのジャーナルに掲載されたもの(臨床系では、NEJM、Lancet、JAMA、BMJなど、基礎系だとNatuer、Science、Cellなど)ですと、そのインパクトは非常に高いものとなりますので、絶対にやってはいけないことです。

しかし、自身の保身に走ってしまうと、データを少しいじる事で、自分が欲しかった結果になるとすれば、やってしまう人がいます。
日本人も麻酔科はじめ数名有名人がいますが、ガイドラインに引用されるような嘘の論文がアクセプトされて喜ぶのは、等の本人しかおらず、他の人(患者さん、医療従事者、製薬会社、ガイドライン作成委員会など)にとっては、迷惑極まりない行為だと思います。
つい最近も、新型コロナウイルス感染症関連の論文が、Retraction(掲載撤回)されたようです。

本質的な選択肢か

著者は以下のような例えを挙げています。以下引用。
”「商品はいいのに売り方が悪い」「店舗開拓に問題があるに決まっている」”

医療界でも同じく、例えば新型コロナウイルス感染症が院内で流行すれば、我々はちゃんとやっていた、マスクをしていたなどという人がいますが、マスクのきちんとした使い方が本当にできていたのかは謎です。
また、マスクを必ず外す時間である、食事時の対応も適切であったのか、これも問題です。
また、マスク不足に伴う、使い回しも大きな問題でしょう。
ウイルスがマスクに付着しているという前提での対応であれば、マスクはその度に替える必要があります。
さらに、普段手洗いができていない方々に限って、清掃員や最も患者と接するナースのせいにする方がいます。
院内で感染が流行した”本質は何なのか?”という点における選択肢を間違えてしまうと、いつまでたっても同じことを繰り返してしまいます。
医療界で感染症を予防するために必要なのは、1847年にゼンメルワイス氏が提示した、手洗いの重要性は、150年以上経過した現代においても最も重要な事なのです。
そのため、マスク云々ではなく、まずは手洗いがきちんと出来るようにする必要があります。
確かに、新奇感染症である新型コロナウイルス感染症に対しては、過剰なほどの予防が必要だと思いますが、これからはより根拠に基づくスマートな対応が望まれるでしょう。
我々にとっての「主語」は何なのか?を常に問うべきと言えるでしょう。

深い仮説がある

常識の否定

常識とは、個人や企業において長年培われてきたものです。
たとえば、医療業界では、ルーチンというものがありますが、そのルーチンの科学的根拠に関しては、わからず伝統的に行われていることが多いです。
看護の世界でも同じく、各組織でそれぞれの呼称が異なったりするのは、その名残でしょう。
仮にその組織が独自で行っていることが、本質的に良質な事であるという前提であれば、その成果を毎年とは言わずとも、公表すべきでしょう。
そうでないのに、「我々の組織ではこうです」と毅然とした態度でいわれても、何の説得性もありません。
そのような組織風土に醸成されて、常識というのは形成されます。
本来常識とは、毎日のように変わっていくものです。
ある外的妥当性のある論文が提示されたとすれば、その領域における常識というのは、変わるはずなのです。
つまり、常識が長年変わらずに、同じことを延々と繰り返しているようであれば、その組織は、現代の常識を知ろうとしない、勉強不足の組織であると言えるでしょう。

「常識は常に疑う」態度が必要なのです。

最近経験した常識を疑う態度としては、ある方が入職2か月で退職の意思を提示されました。それに対する発言が「根性がない」「忍耐が足りない」といったもので、大学院をでているものの発言とはとても思えませんでした。
その方々の常識とは、入職早期に退職の意思を提示することは、根性論以外の何者でも無いのでしょう。
つまり、仕事を始めてから長年、退職をしてきた人達に対しては、自分たちの責任ではなく、個人の根性の責任にしてきたのでしょう

イシュー特定の為の情報収集

1次情報に触れる

研究を行う方にとっては、常識ですが、1次文献にあたることの重要性が示されています。
2次文献の方が効率はとても良いですが、重要な事項に関しては1次文献を当たる労力が必要です。
2次文献は、あくまでもNarrative reviewですので、個人の意見が多く入っています。
科学的文献には、客観的妥当性が問題ですので、個人の意見など不要なのです。
著者は、1次文献にあたる事のを”呼吸できるようにできている人は少ない”と書いていますが、とても納得させられる表現です。

仮説取ドリブン① イシューを分解し、ストーリーラインを組み立てる

イシューの分解には、「ダブリもなくモレもなく」おこなうと著者は述べています。
当然ですが、ダブリやモレが生じると、双方ともに余計な仕事が増えてしまいます。
ダブりやモレのない働き方は、究極の働き方であるともいえます。

研究でもイノベーションでも言えることですが、重箱の隅をつつくような行為をとることが良い場合もあれば、良くない場合もあります。
重箱の隅とは、他の研究者が散々検証してきた、いわばレッド−オーシャンといえます。

例えば、魚釣りに例えると、同じ場所で散々釣り竿を垂らして攻め続けても、魚は見向きもしませんが、他の人と明らかに異なる餌(ルアー)を投入することで魚が反応してくれる場合があります。

これは、人間でも同様で、レッドオーシャンといわれる、競合他者がたくさんいる状況で、同じような事をやっても成長できない事を意味します。
ブルーオーシャンと言われる、競合他社がいない状況であれば、一人勝ちする可能性はあります。
これを魚釣りに例えると、攻めていない場所(フィールド)かつ魚が沢山いる場所を見つけるしかありませんし、魚の好む餌にマッチしなければ釣果をあげることはできません。

例えば、逆転の発想でカップ麺をカップに入れるのではなく、カップを麺にかぶせることで成功した、安藤百福さんのようは発想が必要となります。
安藤さんに限りませんが、成功した偉人は、常にその事ばかりを考えているように思います。
考えに考えて、その結果やっと結果に結びつきます。
冒頭にありましたように、悩みに悩んだ場合では、結果に結びすきませんので、イシューから始める場合には、考える必要があると言えるでしょう。

例えば、医療現場で使われる心電図は見る方向により全く波形が異なります。
心臓を多方面から電気的にみるのが、12誘導心電図になります。
12誘導心電図検査はその名のごとく、12の方向より心臓の電気的刺激を検証することが可能です。
一方、モニター心電図といって、よくテレビドラマの臨終の場面で見られる、あれです。
実際は、都合良くピッピッピーーーーと心停止することはありません。
モニター心電図は、心臓を1方向からしか見ていません。
そのため、心筋梗塞の診断には使えません。
12個の方向から、心臓をもれなく分断することで、心臓のどの部位の梗塞が起きているのかを検証できます。

著者が言っている、「ダブリもなくモレもなく、本質的に意味のある固まりで」というのは、まさに12誘導心電図が例えとしては、ぴったりのような気がしています。

心筋梗塞でもそうですが、原因はどこか?ということが重要です。
心筋梗塞ですと、大きな冠動脈3本のうち、さらに細分化したどの部位が梗塞を来しているのか、ということです。

医療の現場では、ときに医療ミスとされる事象が生じます。
この分野で進んでいるのは、航空業界とされています。
たしかに、医療業界とは比較にならないほど進んでいると思います。
そもそも、まる1日勤務して、翌日に手術を行うのが日常だった?日本の医療制度では、パイロットが同様の立場の場合に誰もその飛行機に乗りたくないでしょう。
事故に対して多重の介入を行っている航空業界でなくとも、比較的簡単と言っては失礼かもしれませんが、夜間勤務後のバスやタクシーの運転に乗りたくないのと同じです。
何故乗りたくないのかといえば、事故を起こす可能性があるからです。
手術のような大事でなくても、外来診療でもミスが起きれば薬剤の種類によっては大事になりますし、診断エラーにつながる可能性もあります。

そのような、事故の原因は何なのか、というのがRCAといってRoot cause analysisと言われるものです。
根本原因分析です。
イシューの分解も同じく、原因を突き詰めて、これ以上意味のある分解ができないというところまで、分解を行います。
最終的に、ここまでたどり着かなければ、RCAの概念では雑草の根っこが残っているのと同じで、何度草を摘んでも出てきてしまいます。

イシューを分解する型

著者は、以下の3つを挙げています

Where:どの領域で(機能)
What:具体的な勝算を(形態)
How:具体的な実践をしていくか(仕組み)

と述べています。

先にも書いたように、専門領域を間違えると、他者との競合が多くなり、成果に結びつかない可能性があります。
勝算については、研究であればネガティブな結果でも最終的には役にたちますが、ビジネスベースでは、勝算の高いものから実践していく必要があります。

競馬に例えると、大穴狙いをしてもほとんど勝ちは期待できないのと同様です。
しかし、ときには勝算のある大穴狙いが、イノベーションに繋がります。
まさに、ブルーオーシャンと言えるでしょう。

iPhoneは、大穴狙いで市場調査も行われず、市場ニーズがあるかどうかわからない状態で公表され、驚くほどの成果を残しました。
これは、1つの賭けでもありますが、元々Appleのもつブランドや宣伝能力など、様々な要素が緻密に計算された結果であると言えます。
世の中には、素晴らしいモノを世に送り出している人や企業が沢山あると思います。
例えば、iPhoneですと、docomoのi-modeを参考にされたと言われていますし、トーマスエジソンが言ったように「1%のひらめきと99%の努力」が、市場ニーズにマッチするのだと思います。

仮説ドリブン② ストーリーを絵コンテにする

絵コンテで有名なのは、アニメの世界のものはよく見聞きするような気がします。
いわゆる、大まかなあらすじを決めていく作業でですが、ストーリーの最も中心部分といえます。
アニメの絵コンテでも、大まかなストーリを絵コンテで作成したのち、詳細を各専門家の手が入りますので、絵コンテは本質であると言えます。

著者はストーリーライン作成の次の段階と説明しています。
研究論文では通常、タイトルを見て、簡単に要旨をみて、図表を見ていくのがキュレーション的に論文をよくみる方法では無いでしょうか。
つまり、絵コンテは図表作成に当たります。
図表と要旨があれば、その論文の主要な部分は理解出来ると思います。

著者は 
”「どんなデータが取れそうか」ではなく、「どんな分析結果がほしいのか」を起点にイメージを作る”
と述べています。
集めたデータから分析を開始するのは、研究においてはタブーとされていますが、著者も同様の事を書かれており
”これをやってしまうと、ここまでやってきたイシューの見極めもストーリーラインづくりもムダになってしまう”
と言っています。

すべてはイシューから始めることが必要であり、そこから逸れてしまうと、計画書の無い研究と同様、中身の無いものとなってしまう可能性が高くなります。
その結果、使った時間は浪費となり、何の生産性も無いものとなってしまいます。
イシューから始める思想は、研究計画書同様大変ですが、非常に重要なものであると言えます。

定量分析3つの型

  1. 比較
  2. 構成
  3. 変化

比較は、研究の基本ともいえます。
研究の多くは、何かと何かを比較した結果、どちらかが優れていたり、劣っていたりといった結果を比較するものです。
対象をどの様に設定するのかにより異なるとは思いますが、比較しなければそのものがもつ、利点や欠点はわかりません。

構成は、偽性の低ナトリウム血症のようなものかもしれません。
偽性の低ナトリウム血症には、血糖値や中性脂肪の異常が含まれます。
それらの値の異常の結果、実際のナトリウム値は、異なる結果になる(測定された結果より高い)とされています。
ナトリウムという1つの値に注目するのではなく、全体を見渡した比率を見直す事で、本来注目すべきものが見えてくるのだと思います。

変化の代表は、時間軸での変化だと思います。
比較では、何かと何かという異なるもの同士の比較でしたが、変化に関しては同じもので時間軸での比較が可能となります。
その結果、時間という要因が与えた影響を分析することが可能となります。
これは、時間が及ぼした影響なのではなく、時間が経過するに従い介入した項目が増えた事による変化と捉えるべきだと思います。
PDCAサイクルの代表的な考え方です。
PDCAとは、プラン立案→実行→チェック→実践→振り返り(プラン立案)といったサイクルです。
そのため、ベースラインが最も重要です。
ダイエットと同様で、ダイエットはベースラインの体重を知ることから始まります。
その体重の結果、目標体重を決めて、食べる内容などの計画を行います。
計画を立て、実践した結果を体重測定して振り返ります。
その結果、体重の増・減・不変の3つのパターンがあります。
また、これらの評価も3種類というよりは、どの程度という程度問題が生じます。
効果が両極端であれば、次のプランを見直すことも必要になります。

アウトプットドリブン:実際の分析を進める

停滞を引き起こす要因として、「丁寧にやりすぎる」事を著者は挙げています。
完成度60%→70%:倍の時間がかかる
60%→はじめから見直す:時間の半分で、80%を超える完成度に到達する
と書かれています(改変引用)。

学生でノートを極めて丁寧に記載する方がいますが、それと似ているような気がします。
ノートをいくら丁寧に書いたところで、その労力は時間の浪費とも言えます。
そのノートをそのまま出版するのであれば、投資なのでしょうけど、普通の学生はそんな事はあまり考えていない方の方が多いです。
受験のために憶える・引き出しを作るという目的であれば、見た目は60%程度で、最初からみなおした方が当初の目標達成には近づくということはなんとなく実感できます。

メッセージドリブン:「伝えるもの」をまとめる

「デルブリュックの教え」とは、ノーベル賞受賞者である方の教えのことです。
以下のように、著者が紹介しています。

ひとつ、聞き手は完全に無知だと思え
ひとつ、聞き手は高度の知性をもつと想定せよ

無知といえば、ソクラテスの「無知の知」が有名です。
知らないことを知るということは、とても強みです。
普段の生活の範囲内において、通常「知らないこと」は少ないですが、その範囲を少し広げただけで、知らないことが沢山あることに気づきます。
例えば、普段使う道であれば当然知っていますが、少し遠出をした際の道は、全くわからないはずです。
しかし、1度通った道であればなんとなく憶えていると思います。
「無知の知」の本質ではありませんが、そのような例えも出来ると思います。

プレゼンの上手なかたは、バカにしているのかと思うほど当たり前の事から離し始めますが、イントロからわかりやすく、いつの間にか難しい内容に移っていきます。
これは、自動車をゆっくり発進させていきいつの間にか時速100キロに到達していたようなものです。
突然100キロを出されると、身構えてしまいますが、ゆっくりですと何の身構えも必要ありません。

「的確な伝え方こそが知性を刺激する」ものであると言えます。

難しいことをわかりやすく伝える、ホントの天才と呼ばれる方は、このように伝えるのがとても上手なのです。

エレベータテストに備える

エレベーター内で話せる時間はせいぜい30秒程度です。
この30秒の間に、自分のプロジェクトをわかりやすく伝える”準備”が必要です。
例えば、流れ星が流れる間に願い事を言えば叶うとされていますが、そのくらいの準備が常に必要ということです。
プロジェクトリーダーの判断はときに即決です。
30秒のプレゼンでも納得・共感させるものであれば、そのプレゼン内容は採用されると思います。

また、全てを30秒で話すことは不可能ですので、30秒の間で相手の決断にコミットしなければなりません。
その内容と範囲は、相が決めますので、先程の自動車のたとえですと、エレベーターが行き先階にたどり着くまでに100キロを出すことができれば良いのです。

著者が米国時代の教授の言葉を紹介しています。

”「どんな説明もこれ以上できないほど簡単にしろ。それでも人はわからないと言うものだ。そして自分が理解できなければ、それをつくった人間のことをバカだと思うものだ。人は決して自分の頭が悪いなんて思わない」”

極限までシンプルにする事のわかりやすさは、iPhoneが例えやすいです。
過去電話は、携帯電話の躍進によりこれ以上どのように進化していけばよいのかわからないほどに基本的な形を変えずに進化してきました。
けれどもiPhoneは抜本的に形を変え、ボタンは1つだけとなり、極限までシンプルな携帯電話である、持ち運びのできる世界最小とも言えるコンピューターを作り上げたのです。
ここまでシンプルだと、そのボタン以外押すところがありませんので、わからないとは言えません。

まとめ

研究の手法を、積極的に応用すべきである
研究では、事前の計画書の出来で研究の8割以上が決まる
それらの手法を応用し、本書ではイシューからはじめよ、としている
徹底的にイシューを見極め、解の磨き込みに費やすことで、バリューのある仕事につながる
バリューのある仕事をするために通ってはならないのは、身を粉にして働くこと(犬の道)である

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  • この記事を書いた人

R-NURSE

関東地方の総合病院で働いている、臨床看護師です。救急系の集中治療室を経て、現在総合診療内科勤務です。診断とか研究とか、投資とか興味は色々です。

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